こころの話

こころの許容量

よく、心の広い人、という表現をしますよね。

  こころの広い人

って、どんな人でしょうか。
 優しい人、怒らない人、包容力のある人
受け取る側の思いもさまざまです。

大人になっていくと、だんだん人を見る目が変わります。
子どものころは、ご近所だったり、親の都合だったり
交際範囲もスタート地点が簡単で、
とっかかりはあまり深く意識することもなかった気がします。

でも、中学生、高校生と進むにつれて、
周囲を見渡して、自分の居心地のよい場所を求めて
意識して選ぶ要素が出始めるのではないでしょうか。

そして社会人になれば、仕事は別として、
自分が選ぶ、選べる、という環境になるはずです。
…そう、なるはずなんですが

ところがその、自由に出来るはずの人間関係が
一度もつれてしまうと、子どものころや学生時代よりも
ずっとずっと苦しいものになり、逃げ出すこともままならぬ
大変な精神状態へと追い詰められてしまうことにもなります。

仕事を持っていてもいなくても、
子どもがいてもいなくても、
いくつになっても、人は人と関わります。
私自身、この一年で出会った人たちがたくさん居ます。

出会いを通していつも思うこと、
人はそれぞれ個性があるのはもちろんなんだけど
もって生まれたキャパシティがあるなぁ、ってこと…

子どもが小学生時代から親しくさせていただいている
あるお母さんは、いわゆる超セレブです。
普通に考えれば、ウチのような?者がお付き合いできる
そんなレベルではないんだろうけれど(卑下ではなく)
そのかたは、まったく分け隔てなく、そんな意識もなく
偏見のない明るいかたなんです。

そのかたに接するたびに、私はこの許容量を思います。
私の思う許容量、っていうのは、
いかに自分と相反するもの、または知らないものを
しっかりと、または自然に受け止め、受け入れていけるか
その度量、だと思っています。

それって案外、初対面や知り合って間もない人と話していると
気づいたりしませんか。
ああ、この人はこんな風に受け止める人なんだな、ってね。
そして、その受け止め方を、さらに受け止める自分の許容量、
試されてますよね。

なんだかややこしい話になりましたが
最近、このキャパシティについて考える機会が多く
再考してみました。

それはもちろん、もって生まれた性格的なものもあるだろうし
育てられた環境もある、成長とともに得てきたものもあり
無意識のものも大半でしょう。
でも、こうして大人になって、さて自分を見つめたとき
なんてちっちゃな人間なんだろう、って思い知らされたり
関わった相手がちっちゃかったりしたら…

私はいつも書いていますが、人間は変わることが出来ます。
だけどその変化は、決して劇的なものではないし
今日言って明日できるものではない。
ゆっくりと緩やかにいつの間にか、っていうこともある。

だからね、もし自分がちっちゃい人間だと思ったら
一息ついて、それを受け入れていけばいいんじゃないかな。
それは結構、がっかりすることではあります。
自己嫌悪に陥ることだってあるけれど、まずは知ることから。

自分は許容量の少ない人間なんだ、じゃあどうする。
キャパシティを広げるために、どうすればいい。

スタートラインに立てたのだから、あとは前に進むだけ。
たとえゆっくりでもね、

だから、こころの広い人、天性とも思えるそういう人は
本当に尊敬に値するのだけれど、
そうじゃないちっちゃい自分が、悪いってわけじゃない。
きっと、そういうこころの広い人は、
こんな私を受け入れてくれるためにいるんだなぁ…
そんな風にさえ思えます(そこは都合よく)

ちっちゃい自分を許容してあげることも、大切なこと。
自分が幸せでなければ他人を幸せには出来ない。
これは使い古された言葉だけれど、真理ですよね。

自分を愛しすぎるのもまた、危険をはらむことですが
これについては、またの機会にね。

ちょっと相手を観察してみると
相手のキャパシティを通して、実は自分が見えてくる。
そんな体験をしたのでおはなししてみました。

この記事は、2011年7月21日(木)にFC2ブログに投稿したものを編集しています。

投稿者

tokyomatsuzaki@gmail.com
サイト管理人です。

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