受容するということ、親として
癒し系がもてはやされる昨今、裏を返せば、世知辛い、殺伐とした、
キビシい現実があるからこそ、なんだとは思います…
だけどね、当たり前の厳しささえ、忘れ去られてはいないでしょうか。
それがいつも気になるんです。
前に書きましたが、してはいけない我慢としなくてはいけない我慢。
今はみんなごちゃごちゃになり、我慢をよしとしないように見えます。
その日、回転寿しのテーブル籍は親子連れで満員でした。
回転の流れに乗って来ない、別注文の皿は店員さんが運んできます。
我がテーブルにも来ました、が、若いおねえさん店員は顔も上げずに
歩きながら、皿をポンとテーブルに置いて去っていこうとしました…
その一瞬を、私は逃しませんでした。
とっさに、ちょっと待って、と声が出ていたんです。
お客さんのテーブルに食べ物を置くならちゃんとこっちを見て
声をかけて行ってね。
一緒に居た我が子3人、ホントに恥ずかしがって母を非難しましたが
怒った訳じゃないんですよ、注意したの…
可愛いおねえさんは、ハイ、と素直に去って行きました。
これは実は何年も前の話、今あのおねえさんはどうしているか、
どんなお仕事をしているかは分からないけれど、
きっと相手の顔を見ているはず…
私はクレーマーでしょうか??
違いますよね。
でもごねる人も確かにいます、極端に文句を言うひとをよく見ます。
某大臣じゃないけれど、県知事相手に見下したりして
大きな勘違いをしている何様も多いですね。
それを受入れることは受容ではないはず。
「被害」にあった某県知事の対応は相手を持ち上げて
「◯◯大臣バージョンで対応致します」とのユーモア、見事でした。
ぐっと株が上がったことでしょう。
思わぬところで人間性が出るものです。
さて、子どもに怒る親がいなくなったとよく言われます。
ホントかなぁ
って思って見ていると、両極端な気がしますね。
ヒステリックに怒る親、まったく我れ関せずの親、
もちろんそうでないひともいるのでしょうが、両者が目立つのです。
子どもの躾に関しては大いに意見の割れるところだと思います。
幼児は動物に近いのだから社会性を身につけるために叱る、
トラウマになると後々困るから褒めて育てるべきだ、などなど
どちらも一理あるけれど、折り合いを付けるのが子育てですよね。
だけど、その、善悪の判断、甘くなってはいないでしょうか…
子どもを受入れる、それと躾は別じゃないかな、って思います。
今は親自身がオトナになり切れていなくって(自覚出来なくて)
苦しんでいることが多いように思えます。
でも、親はそんな未熟な自分こそを受容すればいいのでは??
未熟な自分が親になったことで、子どもと共に成長しようと
子どもを育てることで親も親になっていく、ってよく言われます。
親自身がそんな弱さを受入れられず、却って親と言う立場に固執し
子どもに威圧的になったり、玩具扱いしたり、追いつめるのでは。
泣いたり怒ったり、もちろん笑ったりと、子どもは一日の中で大忙し。
おかあさんは、どうですか。
感情表現、出来ていますか。
ウチの子どもたちが、子どもで居た時期の、なんと短かったこと…
当時は時の経つのが遅くて、日の経つことが待ち遠しくて、
時間をやり過ごすことにやっきになっていたのに…
今はひとつひとつが愛おしく、切ないくらいに寂しいですよ。
子どものいる時間、子どもが子どもでいる時間…
あっという間です、悔いのないように、
子どもとして、過ごさせて上げてください。
オトナになるために追い立てては、あまりにもったいない。
だけど、当たり前の厳しさも知らなくちゃね。
社会のルール、公衆道徳、叱る時は叱る。
そこは絶対、子どもだから許されることじゃない、ってね。
やんちゃ、っていう響きを、都合良く使っているのが気になります。
やんちゃと犯罪を一緒くたにしないように、そこは親として凛とね。
偉そうに書いていますが、私も子育ての失敗経験者です。
子育ては一生ですから、まだまだ安心出来ません。
だからといって、社会人になった子どもを子ども扱いするのも
どうなんだろう、っていうのも人類の永遠のテーマですよね。
だけどひとつはっきりしているのは
こうして、命が継がれて行くのです。
母乳を与えたことがあるひとは経験しませんでしたか。
自分がほ乳類であること、動物である実感。
(あ、母乳育児じゃなくても、もしかしたらそばで見ている父親も)
母親として、子どもを授かったことそのものが受容です。
だけどその命に対しての責任は、きっちりとらなきゃいけない、
本当の、当たり前の厳しさをもって、子どもを愛する、
ってことを、ちょっと見直してみませんか。
この記事は、2011年7月5日(火)にFC2ブログに投稿したものを編集しています。